〈農〉の哲学とは?
「〈農〉の哲学」を簡単に説明すると・・・
〈農〉の哲学。ハッキリ言って、どなたも聴きなれない言葉だと自負しています(笑)
あらかじめ簡単に説明すると、〈農〉の哲学とは下記のような研究を指しています。
一人ひとりの人間は、まずもって、生物としての身体を備えています。なので、人間が生きていくためには、自然との循環のなかで、農耕や狩猟・採取をし、食料や生活資材を得る活動が欠かせません。この、自然とのかかわりから、生きていくための物資を得る活動を、〈農〉ということばに込めています。
では、なぜこの〈農〉を「哲学する」必要があるのか?
その理由はこうです。
人間は生物である以上、〈農〉が欠かせません。でも、肝心の〈農〉は、自然環境破壊や人間の産業活動などによって脅かされ、ときには不可能となる事例が世界各地で発生しています。そして今後、〈農〉の可能な領域が、ますます狭められていく可能性もあります。そうなると、私たち人間の存在すら、危うくなってしまう・・・そうであるならば、〈農〉を難しくしている社会の在り方と、その背後に潜む思想を考察し、問題の解決を図っていくためにも、より持続可能な社会へと転換しうるあらたな思想(共生理念・社会思想・経済思想など)を提起していく哲学が必要なのではないか?
そう思ったのです。
〈農〉をめぐる諸問題
以上、問題意識をかんたんに押さえたうえで、〈農〉と哲学の関係性をより詳しく説明したいと思います。そのためにまず、〈農〉をめぐるどんな問題が国内外で深刻化しているのか、みておきたいと思います。
世界的にみれば、土壌の劣化によって良好な耕作地がどんどん減少していると国連が警鐘を鳴らしています。また、地球の温暖化由来と思われる天候不順が、各地で干ばつを発生させ、農業生産に甚大な被害を与えています。ほかにも、科学肥料の使い過ぎによって自然界の窒素が飽和状態になり、森林の回復力が失われてしまうという地球規模での大問題もあります。このように、人間の産業活動によって排出される温室効果ガスや化学物質由来の問題群がまずあります。
くわえて、おもに「途上国」で起こっているのですが、(「途上国」からみた)海外資本が投下されることによって農地の集積や開発が進み、伝統的な〈農〉を担っている人びとが隅に追いやられる事態が発生しています。そうした事態を何とかしようとする活動家や宗教家が暗殺されるという悲惨な事件も、後を絶ちません。また、穀物が先物取引の商品となっているがゆえに、安価な穀物が流入して、多くの農家が廃業を強いられ、「途上国」内の農業がたちゆかなくなり、壊滅状態に陥る事態も発生しています。それにもかかわらず、穀物価格が先物取引市場で上昇したら、「途上国」に流入しなくなるのに、国内の農業はすでに壊滅的な状況のため、途端に飢餓に陥るという事態も発生してきました。
さらに、近年では、あいつぐ戦争、紛争により、農業生産力が低下するという問題も発生しています。たとえばロシアに攻め込まれたウクライナの国土地帯は小麦の一大生産地です。しかし、戦闘によって生産が難しくなった結果、ウクライナの小麦を輸入していたアフリカ諸国でたいへんな事態が発生しています。イスラエルが戦闘行為を続けているパレスチナ地区は、オレンジやオリーブの一大生産地です。権力者たちのゆがんだ欲望が、〈農〉だけでなく、〈農〉をして暮らす人びとの〈いのち〉まで脅かしています。
国内に目を向けると、食料自給率が低いという大問題がまず挙げられます。にもかかわらず、農家の平均年齢はもうすぐ70歳に達し、新規就農者も減り続けています。その結果、農山村では少子高齢化が進み、耕作放棄地が増え、景観の維持も難しくなり、〈農〉の文化の継承も困難になっています。こういった問題の背景には、1960年の日米安保条約改訂以来とられてきた、工業製品の輸出を中心にすえる経済成長を続ける代わりに、農作物はその黒字分で海外から調達し、国際的な軋轢をなるべくなくそうとする政策がとられてきたという現実があります。
くわえて、1990年代から使われ始めたネオニコチノイド系農薬の問題もあります。ネオニコチノイド系農薬は、高い水溶性を誇り、農作物の体内に入り込んで「害」虫を撃退する仕組みの農薬です。しかし、水溶性が高いがゆえに、田畑に留まることなく、地下水や河川の水を汚染してしまいます。そして、「害」虫だけでなく、本来は標的ではないはずの昆虫たちも激減させています。ミツバチをはじめとした昆虫さんたちは、野菜や果物の受粉を促す大事な存在なので、〈農〉には絶対に欠くことのできない存在です。その存在が失われるということは、〈農〉そのものが維持できなくなる未来が間近に迫っているかもしれない、という一大危機の出来可能性があることを意味しています。
このように、私たちの暮らしている世界の、お金を儲けようとするための政治・経済システムが、権力者のゆがんだ欲望が、あるいは生活や労働の現場を便利にするはずの産業活動の副産物が、〈農〉の維持を難しくしている現状があるわけです。
それにもかかわらず、ふだんは〈農〉から離れて暮らす都市の人口は増え続けています。世界における人口の半分が都市に住むようになった、とニュースになって久しい状況です。ところが、上記のような要因により、もし世界中で〈農〉がどんどん脇に追いやられていったら、都市の人口を支えられなくなってしまうかもしれません。そうなったら、いったいどうなってしまうのか・・・想像するだけでも恐ろしいです。
哲学とは?
このように、〈農〉は、私たち人間の〈いのち〉の基盤であるにもかかわらず、人間のつくった政治・経済システムによって、あるいは産業活動によって、維持が難しくなっています。
ですが、そうした政治・経済システムを成り立たせているのは、経済の側面で言えば、資本主義、社会主義、社会民主主義といった経済思想の選択の結果です。政治のシステムも、民主主義を重視するか否か、地方自治を重視するか否か、といった思想の選択の上に成り立っています。
産業活動もまた、経済思想にくわえ、自然の存在をどこまで資源とみなすか否か、どういう自然を残すべきかといった自然観、どういう人間の生き方が望ましいか、人間の豊かさとは何かといった人間観の、それぞれどんな見方を選択するかによってその中身が変わってきます。
ということは、いま、〈農〉が困難な状況にあるとしたら、それは、ある哲学・ある思想が選択された結果であるともいえるわけです。だからこそ、〈農〉の哲学がいま求められているのではないか、と思うに至ったのです。
それでも、やはり、「〈農〉を哲学するってどういうこと?」という疑問はぬぐえないかもしれません。そこで、「哲学」とは何か、簡単に説明したいと思います。
哲学は、古代ギリシア語で「知識愛」をあらわす「フィロソフィア」という言葉を語源にもっています。哲学の歴史は、小アジア(いまのトルコ西岸)のイオニア地方にあるミレトスという都市で始まったといわれています。なので、当時の哲学はイオニア学派と呼ばれているのですが、その学派の哲学者たちの考察対象は「自然」でした。すなわち「自然は、そもそもいったい何からできているのか?」という探究が、哲学の始まりだったのです。
それから少し時代を下って登場した有名な哲学者、アリストテレスは、正義とは何かを徹底的に考え、倫理学の祖といってもよい人なのですが、一方で、「川の水はそもそもいったいどこから流れ出しているのだろうか?」と真剣に考えたりもしていました。その結果、「山の内部で水があふれだしてきて川になっているんだ!」と本気で言ってたりしています(今からみると間違った結論ではあるのですが)。
このように、哲学とは、人生とは何か、道徳とは何か、といったことに留まらない、ものすごく広い研究対象をもってきた学問なのです。つまり、哲学は、世の中にあふれている、そのときどきの時代のなかで、まだ未解明の、あらゆる問題の「そもそも」を探究し、明らかにする学問、として出発したのです。
〈農〉と哲学とが結びつく理由
だとしたら、いまの時代の大問題である〈農〉の阻害されている状況は、わたしたちの〈いのち〉に関わるからこそ、捨て置くことはできません。だからこそ、先に記したように、もし、いまある社会・経済システムや人間活動が〈農〉を困難な状況に陥らせているとしたら、その中身は、そもそも、私たちのどんな思想の選択の結果として成り立っているのか、を考える必要があると思うのです。そうしないと、問題をよりよくしていく端緒が見つからない、ということになってしまうからです。つまり、社会・経済システムや人間活動を成り立たせている思想を哲学する必要があるわけです。
そして、そうした側面の問題点を把握したうえで、ようやく、では、自然との循環を重視する〈農〉が可能となる持続可能な社会を築いていくには、そもそも、どのような社会思想、経済思想が必要になってくるのだろうか、という次元での〈農〉の哲学研究も展開できるようになってきます。なぜなら、問題の所在が把握できなければ、その解決法を探るのは困難だからです。
ところが、この、持続可能な社会について、権利の観点からすでに「こうしたほうがいいよね」と提起した宣言があります。それは、国際連合が2018年に採択した「小農の権利宣言」です。
宣言では、なんと、いわゆる農作業に従事する人だけでなく、山の猟師さん、海の漁師さん、狩猟・採取で暮らしている人びと、農山村で伝統工芸に従事している人びと、大農場の賃労働者なども「小農」だと定義されています。つまり、宣言の定義に即していうと、自然とかかわり、自然に働きかけて生活の糧を得る活動はおしなべて〈農〉だということになるわけです。
しかしながら、そういった生業活動をすべて〈農〉でくくる見方は、まだまだ一般的ではありません。〈農〉というと、どうしても田畑を耕す農耕活動というイメージがつきまとうからです。なので、いわば、権利が、私たちの人間を見る目に先行してしまっている、そんな状況にあるわけです。
だとしたら、持続可能な社会のための研究として、「そもそもなぜ、自然とかかわって生きるすべての生業活動を〈農〉といえるのか?」「そういった活動が〈農〉といえるとして、なぜ、人はそもそも〈農〉をするのか?」という哲学(=そもそも論)の観点から思索を進め、「小農の権利宣言」が求める人間観を探究する必要があるのではないか、それがいま、哲学に求められている課題なのではないか・・・そう思うようになりました。
〈農〉の哲学研究の4位相
ここまで、〈農〉の哲学とは何か、説明してきました。その主要な探究の柱をまとめると、以下の4つになります。
第1に、「人はなぜ〈農〉をするのか?」という、人間存在のそもそもを探る哲学研究です(Ⅰ)。これは、先に記したように「小農の権利宣言」が権利として先行させた「小農」の定義を、あらたな人間観として裏付け、より強固な概念にするための研究として位置づけています。
第2に、〈農〉を阻害する要因となっている政治・経済システムや人間活動の基盤をなしている思想の研究です(Ⅱ)。先述のとおり、これらが〈農〉を阻害し、また地球の自然環境を破壊する側面をもっているとしたら、持続可能な社会を考えるうえで、それを成り立たせている思想の何が問題なのか要因を突き止める必要があります。
第3に、持続可能な〈農〉のための共生理念・経済思想・社会思想の探究です(Ⅲ)。Ⅱの側面がわかってきたら、次に問われるのは、Ⅰの人間観を実現しうる持続可能な社会では、どういった思想が要請されるのか、という点だからです。
第4に、〈農〉のある地域づくり・活性化の探究です(Ⅳ)。Ⅲの研究を遂行するには、〈農〉のある地域づくり、地域活性化にすでに取り組まれている最先端の現場に学ぶ研究を、ぜったいに欠かすことはできません。
このように、「〈農〉の哲学」は、まったくもって新しい分野ではありますが、実は山積している〈農〉をめぐる課題の解明に必要な、時代にマッチした哲学なのだと、そう思っています(かなり手前味噌ですが)。〈農〉の哲学研究の4位相の詳細な内容については、ページを改めて紹介したいと思います。
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